オーストラリア先住民による「先住民大使館」は俗に「テント大使館(The Tent Embassy)」とも呼ばれ、今も首都キャンベラでパブリックアートのように先住民の権利を静かに主張し続けています(前編参照)。後編では、テント大使館の設置以降、1980〜90年代の労働党政権による先住民への歩み寄りと、その後テント大使館に対抗する保守連合政権側のパブリックアート設置の経緯などを解説します。(文=恵啓)
テント大使館のおかげ? 融和政策への転換
オーストラリア連邦議会では保守連合政権が負け、1983〜96年にボブ・ホーク氏とポール・キーティング氏が首相となった労働党政権が続きます。この期間にテント大使館は、前編で述べましたが、1992年のオーストラリア記念日から恒久化すると宣言しました。これに対し、労働党政権は特に対決姿勢を打ち出しませんでした。
逆に、この期間は先住民を巡って大きな出来事があったといえます。例えば、連邦政府と先住民を直接結びつける目的で、ホーク政権が1990年にオーストラリア先住民・トレス海峡諸島民委員会(Aboriginal andTorres Strait Islander Commission)を立ち上げました。連邦政府の監督下にあったとはいえ、先の自由党政権からは考えられなかったことでしょう。また、今では当たり前に認められている先住民の土地権ですが、それを求めて争い、先住民のマボ氏が勝ったマボ裁判が1992年に結審しました。これを受け、連邦議会では先住民の土地権を法的に確立することを目的とした先住民土地法が93年に可決しています。また、オーストラリア先住民の三色旗と青をベースとしたトレス諸島民の旗が国旗と決まったのもこの時代です。

労働党政権と「失われた世代」
また和解(reconciliation)という概念が先住民を巡る動きの中で頻繁に現れるのもこの頃からです。キーティング政権は連邦・州政府が行った先住民に対する抑圧的・差別的な政策を振り返り、先住民との融和を図る方策を探り、先住民との和解を進める組織として先住民和解委員会(Council for Aboriginal Reconciliation)を立ち上げています。
その一環として具体的に、労働党政権は先住民の「失われた世代(the Stolen Generation)」の問題に焦点をあてています。キーティング首相は、国際先住民年とされた1992年、連邦政府が行った先住民に対する過ちを認める演説をシドニーのレッドファーンで行い、翌年には先住民の子供を親から強制的に引き離して「文明化(皮肉ですよ)」を目指した政策について、その被害者である「失われた世代」と言われる人々の実態調査を始めました。さらに、キーティング政権は、将来的に連邦政府として失われた世代に対し公式に謝罪すると約束しています。
このように書くと、まるで労働党の回し者かのように思われそうですね。もちろん、労働党政権の一連の先住民関連政策が完璧だったというつもりはありません。それでも、保守連合政権時代には起きなかった出来事がこれだけあるのも事実です。
政権が交代するということは、基本的に有権者による前政権の否定です。オーストラリアの場合、政権に就いた党は前政権が反対したことを取り上げ、実施しなかったことを行うことが顕著です。その点では先住民関連政策の大きな変更は、労働党にとって前政権との違いを打ち出しやすかったのではないでしょうか。
政治家の思惑はともかく、ホーク氏とキーティング氏の労働党政権時代に先住民の地位を大幅に変える出来事が目に見える形で起きたことは確かです(考えてみれば、自分が知る先住民の人々に労働党支持者が多いのもそのせいかもしれません)。そして、こうした一連の動きが起きた発端の一つとして、テント大使館の影響も大きかったのかなとも思います。
政府が仕掛けるアート対決

1996年に労働党政権が敗れ、その後ハワード保守連合(自由党・国民党)政権が続きます。このハワード首相、2000年に入ると突如として先述の「議会の大三角形」の中に、「和解広場(ReconciliationSquare、後にReconciliation Place/和解プレースに名称を変更)」を設置すると宣言しました。
ハワード首相は和解広場について「初めて本当に先住民を認識し、調和した未来を共有する国家を望む私たちの願いを踏まえた、国家的な象徴」だと自画自賛しています。本当に象徴していない何かが既にあるかのような口ぶりですね。そして、和解広場そのものや、和解広場に設置される造形物は、先住民の歴史を示すだけでなく、国民が共有する歴史と結び付き、先住民の「失われた世代」の人々の存在、先住民が達成したことなどを表すのだと宣言しました。また、どのように建設を進めるかについては、キーティング労働党政権時代に立ち上げられた先住民和解委員会の諮問によるとしています。
これって、明らかに目には目を、パブリックアートにはパブリックアートをという、同じ土俵で対抗しようという意図の現れでしょう。これは自分だけの解釈ではなく、キャンベラの地元紙キャンベラ・タイムズの記者も同じように思ったということで、和解プレースをテント大使館にとって代わる象徴にしようとしていたと書いています。また、テント大使館の関係者も「和解プレースはテント大使館を貶め、最終的に取って代わろうという政府の陰謀だ」と認識していたとか。
それはともかく、ハワード政権は和解プレースに設置されるパブリックアート作品については、連邦政府の下部組織である国家首都当局(National Capital Authority)を通じて進めると決めました。選考委員会を立ち上げると、2001年2月28日に一般から公募を開始しました。締切りは2001年5月9日で36件の応募があったといいます。同年6月18日に、選ばれた作品が発表されました。


現在、和解プレースを中心とした歩道には、17点のパブリックアート作品が展示されています。内容については国家首都当局が、それぞれの制作者や作品内容の説明をしてくれています。個々の作品については、連邦政府の仕掛けに乗ったとはいえ、アーティストに罪はない訳で、可能ならキャンベラに行って、自由に感じ思い考えてもらえればと思います。
距離を取った癖に「和解」とは…

自分には、正直言って、ハワード保守連合政権が和解プレースの立ち上げを決めたのは、皮肉に見えます。何が皮肉かと言えば、ハワード政権は、それ以前のキーティング労働党政権と比べて、先住民と距離を取る政策を採っていたからです。
それに関連し、先住民を主なターゲットとした公共放送NITVは、ハワード政権が先住民に残した負の「遺産」として7点を指摘しています。例えば、ホーク労働党政権が先住民と連邦政府を結びつけるために立ち上げたオーストラリア先住民・トレス海峡諸島民委員会について、資金を削減した上で、委員に汚職が見られたとして廃止しています。また、先住民土地法を改正し、せっかく法律で保護した先住民の土地権限に制限をかけました。さらに、キーティング労働党政権が約束した、「失われた世代」への連邦政府による謝罪を拒否しています。一応、ハワード首相は議会で、「失われた世代」に対する政府の過去の行為について「心から深く失望するもの」だと述べていますが、それだけでした(その後、2006年にラッド労働党政権時代にラッド首相が正式に謝罪の言葉を述べています)。
他にも、国際連合が2007年に採択した「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に反対しました(これもラッド労働政権時代になってオーストラリアが署名しました)。そんなハワード政権です。それゆえに、「和解」についても意味をねじ曲げたと批判されています。ハワード首相はアングロ・ケルト系のオーストラリア占領を帝国主義的な観点から考えるべきではないと主張しました。また、「和解」を体現するイベントとしてシドニーで行われた行進への参加も拒否しています。それにも関わらず、ハワード政権は、和解プレースの設置と、和解にちなんだパブリックアートの設置を決めたのです。
「聖地」を切り売り

ここまで、オーストラリアのテント大使館と連邦政府の対抗アートについて述べました。ところで、勝敗の件ですが、テント大使館はその初期の意思を通し、少なくともNTの土地権を認めさせたことでは、連邦政府に一杯食わせて1勝を上げたと言って良いでしょう(もし勝敗がそこにあるのなら)。その後の強制執行を勝負に加えるなら、負けて勝ったともいえます(ただ、それはパブリックアート対決とは言えませんが)。
その後、両者はひたすら対峙し続けています。ただ、インパクトという点では第一期テント大使館にかなうものはありませんが、今は連邦政府のパブリックアートもテント大使館も、共に考えさせてくれるという点では、引き分けとしてもいいのではないかと思います。
ただ、気になるのは連邦政府が、国政の「聖地」だった議会の大三角形の意味づけを放棄しようとしているような態度を取り始めていることです。例えば、連邦政府は「議会の大三角形」の内部の敷地を民間に放出しようという話を2016年からしており、遂には旧国会議事堂に向かって左に位置していた国立公文書館を開発企業に売ってしまいました。ある意味、議会の大三角形が世俗化していくということですね。そういう意味では、連邦政府側の次の仕掛けといえなくもないです。パブリックアートの破壊は、世俗化なのかもしれません。いずれにせよ、今後の推移からはまだまだ目が離せません。
