オーストラリアの首都キャンベラは、退屈な所だと言う声をよく聞きます。ただ、個々のコンテンツをよく見ると、なかなかに興味深いモノが揃っています。オーストラリア博物館に行くもよし、国立美術館を見るもよし。また、国家議事堂で政治家がちゃんと議論しているのを見学するのも、楽しめる人には楽しめます。
そうしたコンテンツの中でお勧めする一つが、オーストラリア先住民と連邦政府のパブリックアート対決です。それは静かに、しかしあからさまに勝負を続けています。
先住民側の仕掛けは、旧国会議事堂(Old Parliament)前の広場に1972年に立ち上げられ、数度の断続を経て、1992年のオーストラリア記念日から恒久的に維持されている「先住民大使館」、あるいは俗に「テント大使館(The Tent Embassy)」と呼ばれるものです。(文=恵啓)
首都のアート対決
今は、テント大使館にいつも人がいる訳ではありませんが、オーストラリア先住民は自分たちの土地権と自治権を要求する掲示を続けています。訴えたいことを明確に示すストレートな表現を採用したパブリックアートですね。
これに対して、オーストラリア連邦政府は2000年以降、公募で選んだパブリックアート群を、テント大使館の近くに設けた「和解プレース(Reconciliation Place)を中心に繰り広げています。その主題は、特に先住民と後から入って来た人々との融和と調和ですが、テント大使館の主張から視点をずらそうとしているようにも見えます。
この対決、何を基準にするかによって変わりますが、自分の見立てでは先住民側が1勝1分けで勝ち越し中と言ったところでしょうか。
以下では2つのパブリックアートについて、①そもそもテント大使館はどのようなものなのか、②連邦政府は和解プレースで、どのように対抗アートを展開しているのか、③1勝1分けとする見方の根拠は何かの3点を中心に説明します。
テント大使館とは
テント大使館が初めて建てられたのは、1972年の1月26日、つまりオーストラリア記念日(Australia Day)です。
オーストラリア記念日と言えば、英国のフィリップ総督が1788年に、微罪で捕まった囚人を載せた4隻の艦隊(First Fleet)で、初めてオーストラリアにたどり着いた日です。無主の土地(Terra nullius)としてオーストラリア大陸にやって来たアングロケルト系の人々にとって、この日はいわゆる建国記念日とされてきました。
逆に先住民にとっては、英国人の侵略が始まった日とされています。彼らは植民地化の過程で失われた文化を悼む日として、1938年からオーストラリア記念日を「哀悼の日(Day of Mourning)」あるいは、明確に「侵略の日(Invasion Day)」、はたまた「生き残りの日(Survival Day)」としています。この日、先住民たちは様々な問題の解決を求め、自分たちの存在を示威する目的で各地でイベントやデモを行っています。ある意味、国内の分離が明確になる日なので、近年はオーストラリア記念日の日を変えるとか、名称を変えるとか、国関連の式典を行わないとか、いろいろな案が検討されていますね。
話を戻しましょう。とにかく、そうした、先住民にとっては至極微妙な日を前にした1972年1月25日、当時のマクマホン保守連合(自由党・地方党)政権はわざわざ、先住民の感情を逆なでするような声明を出しました。先住民の人々は1970年代に入ってから、現在、北部準州(NT)とされている広大な地域で、土地の権利と自治権を認めるよう、連邦政府に要求していました。彼らこそが、オーストラリア大陸に人類の中で一番のりに定住したからです。
これに対し、マクマホン首相は、公式にそれを拒否するとの声明を発表したのです。一応、妥協案として、先住民に対する優先的な賃貸権を提案してはいましたが。とは言え、マクマホン政権は無神経というか、先住民を舐めているというか。今なら保守連合(自由党・国民党)であれ、労働党であれ、どちらの政権であっても絶対にしないようなことを、わざわざしたのです。先住民からすれば、当然、腹の立つ話でしょう。
この声明に反応したのが、今も多くの先住民が住むシドニーのレッドファーンに集まっていた先住民の若手活動家たちでした。この中の4人が首都キャンベラに車で出向き、連邦議会国会議事堂前に抗議のために座り込もうと決めたのです。ただし、単なる座り込みでは芸がないと思ったのでしょう、ビーチパラソルの下にシートを敷いて小さなテントを立て、「先住民大使館」と称するテント大使館を立てました。
先住民の旗の起源?
どうして大使館なのか。それについて、テント大使館の初代メンバーの1人であるゲリー・フォリー(Gary Foley)氏は、「昨日(25日)の首相の声明は、我々(先住民)の土地で我々を異邦人として扱ったようなもの。じゃあ、他の異邦人たちと同様、我々にも大使館が必要だ」となったと回想しています。確かにオーストラリアが異邦人とする日本も米国も、キャンベラに最前線での折衝機関として大使館を置いています。4人はそれにならったということですね。
ちなみに、彼らはテント大使館の活動を開始してからしばらくして、大使館を構え自治権を持つとの象徴でもある「国旗」、今も先住民のイベント必ず見かける、赤・黃・黒の三色旗を掲げました。都市伝説の1つとして、先住民三色旗が公式にはためいたのは、テント大使館が初めてという話があるそうですが、本当のところは南オーストラリア州アデレードの活動家が考案したのが起源で、既に世の中に出た後ではあったということです。
ただ、そんな伝説が生まれるのは、テント大使館が当時もたらした影響が大きかったからです。テント大使館の存在は、オーストラリア国内だけではなく、その主張とともに欧米圏のメディアでも伝えられました。さらに、ソビエト連邦の大使館からテント大使館へ表敬訪問があったほか、カナダの先住民団体も訪れたといいます。また、英国からの独立を目指していたアイルランド共和国軍からも使節がやってきたそうです。オーストラリア国内での反響でいえば、時の野党労働党の党首だったウィットラム氏がテント大使館を公式に訪問し、活動家の主張に耳を傾けています。
「目障り」な大使館
一方、テント大使館の存在は設立当初から、キャンベラの政治家や行政府の人々にとって、「目障り」とされていました。自分たちが拠って立ち尊重する国のシステムを馬鹿にしているように見えたのでしょう。
例えば、マクマホン政権で先住民相を務めていたホーソン氏は、テント大使館について「大使館という概念の選択は、そこに何らかの自治権があることを意味するもの」とし、分離主義に反対する連邦政府の立場に反するものだと批判しています。当時は世界的に旧宗主国から植民地が相次いで独立する機運が高まっている時だったので、テント大使館という動きで、国内の先住民が一斉に立ち上がって、国内で独立の声が高まり、場合によっては物理的な抵抗運動の発生を恐れたのでしょう。
それ以前に、テント大使館は、キャンベラの都市設計理念に反する存在でした。キャンベラは、国家システムの安定を象徴する「国家の大三角形(The National Triangle)」または、「議会の大三角形(TheParliamentary Triangle)」と呼ばれるモノを内包しており、テント大使館はその中に物理的に割り込んでいるからです。
キャンベラはそもそも、メルボルンとシドニーの首都争いの妥協の産物として決定された首都で、その設計は国際的公募で選ばれた米国の建築家、ウォルター・バリー・グリフィン氏が行いました。彼はキャンベラの設計に当たり、オーストラリアという国家を形成する3要素を選び、それを象徴する構造物をそれぞれ三角形の頂点になるよう配置しました。その3点とは、政府を象徴する国会議事堂、国家への脅威に対する力を示す国防省の庁舎、そしてオーストラリア市民の存在を象徴する小高いシティー・ヒルです。
以下の図は、キャンベラの地図上に示された「議会の大三角形」です(Wikipediaより引用)。
この「議会の大三角形」の中には、全てではないにしても、オーストラリアの国家機能を司るさまざまな省庁や機関が入っています。例えば、財務省や金融省、また司法の最高機関である最高裁判所、オーストラリアの知と美を集めた国立図書館や国立科学技術センターと国立美術館、オーストラリア政府の記録を集めた国立公文書館などです。さらに、国家システムの中心である、新・旧の国家議事堂を結ぶ直線のその先には、オーストラリアのために戦った人々を祈念する戦争記念館が配置されています。
このように国家システムを形成するさまざまなレベルの機能が集約された場所が議会の大三角形なのですが、その中に、ともすれば、国家の分離を導く恐れがある主張を続けるテント大使館が立っていたら、そりゃあ、国家システム側の人からしたら面白いものではありません。そういう意味では、テント大使館の位置取りは、気分良く国家の機能を示す象徴空間の中に目障りな異物として邪魔しています。
「目障り」とされたテント大使館ですが、先住民の人々はその言葉を逆手に取ります。「目障りなのは、連邦政府の解決の仕方が目障りなやり方だから当然だろう、自分たちも本当はこんな所でこんなことをしていたくはないんだ」と。さらには、テント大使館が目障りならば、オーストラリア自身が世界で目障りだとまで言っています。
法律を変えて強制排除
目障りなテント大使館に対し、政府側は法律に基づき合法的に排除を行いたかったようですが、なかなか適当な法律がなく手をこまねいていました。テント大使館が設立された時点で、連邦政府が邪魔できるような法律は、公共の場に無目的にとどまってはいけないとの法令で、罰金40豪ドルが科されるだけでした。
結局、マクマホン政権は、テント大使館を強制排除するためにわざわざ法律を変えています。よほど嫌だったんですね。これにより、連邦政府はテント大使館は許可なく広場を占拠してはいけないという法律を盾に、設立後約6カ月(同年7月)でテント大使館を強制執行により立ち退きさせました。もちろん、当時は立ち退きに反対するオーストラリア国立大学の学生や先住民の活動家が抗議したそうです。
しかし、その後1979年、仮の国会議事堂から本格的な国会議事堂を現在のキャピトルヒルに建設することに決まった時、またもや第2期テント大使館が建てられたのです。しかしこれも、建設を前に強制執行により立ち退くことになりました。その後、数年を経て1992年からはテント大使館が存続しています。ちなみに、テント大使館の立ち上げから2度の強制執行は、すべて保守連合政権下で起きています。
ここで一点指摘しておくべきは、1972年の初代、1979年の第二代、と1992年の第三代テント大使館は、それぞれその目的と意図が微妙に違っていたということです。初代テント大使館が72年2月に正式に発表したのは連邦政府に対する請願は、前述の通り北部地域の土地権と自治権の要求に限定されていました。一方、第二代テント大使館に至っては、連邦政府に対し、先住民全体の土地権と自治権を認める法律の立法化を要求しています。さらに、第三代テント大使館は、当時のティックナー先住民・トレス諸島民問題相に対し、先住民の自治権を一方的に宣言するなど、もはや連邦政府にお願いまたは要求する立場を超えてしまいました。段々と自分たち自身の立場を引き上げていたといえます。
後編では、テント大使館の設置以降の労働党政権による先住民への歩み寄りや、その後の保守連合政権がテント大使館に対して仕掛け、現在まで続く「アート対決」についてまとめます。
