今年のシドニービエンナーレに参加している5人の日本人アーティストの中で唯一、写真作品を出展しているフォトグラファーの野口里佳(Rika Noguchi)さん。光の反射やゆらめき、影、表面張力、磁力、重力といった自然の力を感じる日常の瞬間を切り取った「小さな奇跡」など、繊細な感覚を柔らかな視線で写した作品がNSW州立美術館(Art Gallery of New South Wales)に展示中です。
野口里佳さんとは

野口里佳さんは埼玉県生まれ、沖縄県在住のアーティストで、最近までドイツのベルリンで創作活動を行っていたそうです。野口さんは自身の体験を綿密に観察し、日常の中にひそむ小さな真実や瞬間をカメラで捉え、普遍的な感覚を描き出すことで知られ、その作風は絵画的とも詩的ともいわれています(シドニービエンナーレの公式サイトより)。
1992年からアーテイストとして写真制作を始めた野口さんは、日本、ドイツ、イラクなど世界各国で展覧会を中心に作品を発表し、野口さんの公式サイトには写真集も複数刊行されていることが記されています。シンプルで素敵なサイトで、野口さんの写真の雰囲気にぴったりでした。
今回のシドニービエンナーレ会場では野口さんの作品が複数展示されていますが、中でも特に「Small Miracles(小さな奇跡)」というタイトルのついた8枚の写真が印象的でした。日々の中で気付かずに通り過ぎてしまいそうな何気ない瞬間が、温かみのある写真に仕上げられ、いつまでも見ていたくなるような作品ばかりでした。
ファインダー越しの「小さな奇跡」
野口さんの作品は、シドニーのNSW州立美術館のLower level 2のフロアに展示中です。美術館の入口から入ったら直進してエスカレーターで下り、右手の展示室。作品は複数あるため展示室内の壁2面を使って、向かい合わせのように配置されていました。
ビエンナーレは2年に一度の開催である上、世界中の注目アーティストが出展しているとあって、どの作品もインパクト大です。そんな中で野口さんの作品は色彩的な派手さもなく、平面の写真ということもあって、どちらかというと地味でひっそりとした印象を初めに受けました。
なお、写真作品の表面にはクリアパネルが被せられているため、ここに掲載する画像には会場の光の反射や他の作品が写り込んだりしています。写真を写真に撮ること自体がそもそもナンセンスな気もしますが、あくまで参考ということで、実物の美しさは是非会場で確かめてください。

こちらは「Small Miracles」と題した作品の1つです。指先で支えられたプリズム(光を屈折、反射させる透明な多面体)に光が当たり、透過した光が作る像が手の影とともに写し出されています。反射する光や色の繊細な美しさに、思わずハッとさせられました。
指先と変わらないサイズの小さなプリズムが作り出すささやかな光景を、シンプルに鮮やかに切り取って見せてくれる野口里佳さんという写真家の目に、世界はどんな風に映っているのだろうと思わずにはいられません。

小さな白いスプーンの先から、今まさに落ちようとする透明な水滴。背景には窓のようなものが写り、そこから入る自然光の中で撮影されたことを窺わせる1枚です。液体である水が、傾いたスプーンから重力に引っ張られて滴という形を持つ瞬間を捉えたこの作品は、目に見えない重力という自然の力を感じさせてくれます。
零れた水が滴になって落ちれば1滴、2滴と数えられ、あたかも元の水とは別個のものであるように変わり、やがてスプーンは空になってしまうはずです。そんな予感の切なさも思わせる写真でした。

逆さまの小さなグラスに入った水、その下には白い紙。表面張力の実験としてこれを試したことがある人もいるかもしれません。グラスに水をいっぱいになるまで注いで、その水面に紙を置いてグラスをひっくり返すと、表面張力が働くために紙は落ちず水は零れない、というものです。
表面張力は液体・固体と気体の表面で隣り合う原子や分子に働く力で、界面張力という現象の一種。この場合は水面に「内側へ引っ張り込もうとする力」が働くので紙と水が隙間なく密着します。
ごく当たり前の自然の法則なのですが、子供の頃の遊びとして水が零れてしまうスリルや緊張感があったことを思い出しました。

子供のような手が持つ金属製のスプーンの先端にくっついた金属製のリング。金属同士なので磁力が働いていることがわかります。とはいえ、カトラリーは一般的にステンレスなので磁力は働かないのでは?と思ったところで、「磁性」という言葉を思い出しました。強力な磁石で金属をこすると金属に磁性が発生し、磁力と同じように鉄を吸い付けるようになるのです。
ただしこの磁性は、ひとたび金属に振動や衝撃、熱などの刺激を加えると失われてしまうという一時的なもの。そんな儚い一瞬が写真に切り取られているんですね。
ちなみに、ステンレスは鉄とクロムやニッケルから作られる合金鋼。一般的にステンレスからは鉄の性質が完全に失われていると思われがちですが、生成時の混合の割合によっては鉄の性質が残ったままで磁石に吸い付くということもあるそうです。
写真の中では可愛らしい手の持ち主が、キッチンのようなキャビネットのある明るい部屋で自然科学の不思議に触れ、その時どんな表情をしたのだろうと、鑑賞しながら写真のフレームの外を想像したりしました。
この作品に限らずですが、小さな子供が自分の生きる世界の全てを新鮮に受け止め、自然の事象の不思議さに素直に驚き喜ぶような無垢な感動が、野口さんの写真で表現されているように感じました。
また、この一連の作品にはほとんどに人間の手が写っていて、手で触れることのできる奇跡を、日常の中にある不思議や喜びを描いていることが強く印象付けられました。
「Small Miracles」の他にも、静かな生命力や人間の営みを感じさせる作品が展示されていました。どれも淡い光に彩られ、世界の美しさや豊かさを再認識させてくれる作品ばかりでした。
展示会場であるNSW州立美術館への行き方や開館時間は、別の記事にまとめてあるので参考にどうぞ。複数あるビエンナーレ会場の中でも、ここはシティ中心部からアクセスもよく、バリエーションに富んだ作品が見られ、かつ美術館の常設作品も豊富なので見応えがあります。シドニービエンナーレ2018の会期は6月11日までです。
