6月まで開催中のアート展・第21回シドニービエンナーレ(Biennale of Sydney)で、日本人アーティスト高山明さんのビデオ・インスタレーション作品が展示中です。高山さんの作品は、多民族・多文化国家のオーストラリアで世界各国の出身者による伝統の歌や詩のパフォーマンスを映像に収めたもの。一般公募で集まったという出演者がどんなステージを展開し、それがどのような作品になったのか、そしてオーストラリアの鑑賞者はそれをどのように観たのか、実際に訪れた展示会場の空気から感じたことをまとめました。
会場はアジア現代アートのギャラリー

会場はシドニーのセントラル駅から徒歩8分、チャイナタウンから程近いギャラリー「4Aセンター(4A Centre for Contemporary Asian Art)」で、その名の通りアジア系のバックグラウンドを持つ現代アート作家の作品を中心に取り扱う小さなギャラリーです。
今回のビエンナーレ会場の中で最小規模の会場ですが、アクセスの良い立地なのでフラッと立ち寄るのにもおすすめ。行き方や営業時間は過去の記事にまとめています。
この4Aセンターの地上2階のフロアを丸ごと使って、高山明さんの作品が展示されています。

2階へ上がりきると、昔ながらの劇場を思わせる真紅のカーテンと作品名や説明の表示が並んでいました。ここに作品名があるので、ここから向こうは作品です。作品を「観る」ために来た鑑賞者が、作品の中に「入る」という不思議な一体感や臨場感を感じられるのが、インスタレーション作品の面白さだなと思います。

カーテンの向こうからは作品の音声や鑑賞者のざわめきが漏れ聞こえてきて、観劇に訪れたようなワクワク感もあり、カーテンは日常から非日常へと足を踏み入れる境界としての舞台装置という感じがしました。
歌舞伎と花道

高山明さんの作品「Our Songs – Sydney Kabuki Project」は、今年1月28日にシドニーのタウンホールを会場として行われたパフォーマンスをドキュメンタリー映像として収録したものが素材となっているそうです。出演者は全て一般公募で集められた人々で、募集告知については別の記事にもまとめましたが、自分の民族や家族に古くから伝わる歌または詩をステージで披露するというものでした。
作品としての合計時間はなんと250分(4時間10分)で、ビデオ・インスタレーション作品の中でもかなり長い部類に入るのでは。
カーテンをくぐって中に入ると暗い室内には大きなスクリーンがあり、鑑賞に訪れた人は椅子や床に座ってリラックスした雰囲気で映像を見ていました。
映像は数分ほどのステージ・パフォーマンスの連続から成り、1組のパフォーマンスが終わるごとに次の演者が下の写真の長い回廊のような長い「花道」を歩いてステージに向かう姿が映し出されます。客席は空、BGMは無し、白いスポットライトが演者ただ1人を照らしています。

なお、高山明さんご本人のツイッター・アカウントでは、1月に行われた撮影前〜当日の様子が綴られていました。
シドニーの市庁舎であるタウンホールの内部にこんな美しいホールがあるんですね。それにしても、一度設営された花道を作り直したということや、写真から見える花道の全体像のスケールに、その存在への並々ならぬこだわりが感じられます。作り直す前の花道がどう違ったのかも気になりますが。
完成して展示された作品には、以下のように数々のパフォーマーが次々と登場します。
ところで、展示室の入口にあったサインボードよりも少し詳しい作品紹介が、ビエンナーレのウェブサイト上にありました。それによると……
約400年の歴史を持つ歌舞伎にインスパイアされ、世界各地の出身のシドニー居住者に対し家族の物語や伝統文化を唄で伝えてくれるよう呼びかけました。
シドニー・タウンホールに集まった参加者は会場で、特別に設置された花道を歩いてステージに向かいます。花道(meaning ‘the road of the flower’, the hanamichi)はステージへの出入りの手段で、歌舞伎のパフォーマンスに不可欠な要素です。舞台に着くと参加者は先祖から時代や場所を超えて伝えられてきた歌や詩を披露しました。参加者は空の客席に向かって歌い、赤いベルベットの座席は彼らの祖先あるいはまだ見ぬ子孫のために空けられていました。
今作のパフォーマンスのコンセプトは、日本語の「歌(uta)」と「訴え(uttae)」(=アピールすること、行動を呼びかけること)との語源的な繋がりから、高山明が発展させたものです。
今作「Our Songs – Sydney Kabuki Project」は、様々な受賞歴を持つ映像作家・藤井光と共同制作され、口承による無形の歴史のドキュメンタリーアーカイブであると同時に、シドニーの社会的・文化的構造を構成する個人の声をまとめたアート作品です。
(公式サイトより抜粋して翻訳)
歌舞伎における舞台装置としての花道は、役者が入退場をするだけではなく一部ステージとしても使われる場所。観客の正面の舞台だけでなく、花道の上で台詞を言ったり演技をしたり、ということもあります。しかしそれ以上に、役者が舞台に登場し演技を見せることを強調する装置としての役割がメインかと思います。高山明さんの作品を見ていたら、今作における花道は1人ひとりの参加者(と祖先や子孫)の歩みを象徴しているような気もしました。
鑑賞者の反応は?
会場を訪れて面白かったのは、映像の中で1組のパフォーマンスが終わるごとに鑑賞者のほとんどが拍手をすること。日本だと舞台公演などでその場にいる役者に対して拍手をすることは一般的ですが、オーストラリアでは普通の映画館でも作品が良かったらエンドロールで拍手が起こります。その場に制作者がいようがいまいがお構いなしで、鑑賞者側の敬意を表するのが拍手という行為だから、ということでしょう。そういった背景を考えると、ビデオインスタレーションに対して拍手が起こるのも不思議ではないかもしれません。
展示会場の一角には明るいスペースがあり、参加者からの「パフォーマンスについてのメッセージ」が綴られた紙が貼り出されていました。
筆者が会場を訪れた日には偶然、スクリーン上の映像に出演した参加者の1人も友人たちと見に来ていたようで、それを耳に挟んだ会場中の鑑賞者は彼女の映像を見て拍手を送り、当人は嬉し恥ずかしといった様子で「ありがとう」と言って帰っていきました。なんだか微笑ましい光景でした。
また、あるアジア人男性の詩の朗読が始まった時、座ってスクリーンを観ていた初老の白人女性2人からは「これ、中国語?」「韓国語って書いてあったわよ」「あらそう、いい声ね」という小声の会話が聞こえてきました。
オーストラリアがいくら多文化で多民族の国家だからといって、1人の人間が理解する言語の数はたかが知れているわけで、英語圏の国ですから英語しか理解しない人も当然いますし、移民や留学生としてやって来て自国の言語をメインで使いながら生活している人も多くいます。そんな環境の中で多言語を用いたこの作品を展示するということは、そもそも言葉1つひとつの意味が理解されることが前提ではないのだろうなと思います。
日本では西欧社会の映画や文化作品に触れるチャンスが意外と多いため、特に英語圏の人の顔の表情を読み取ることには比較的慣れている気がするのですが、例えばアフリカや中東といった他のエリアの出身者や文化に触れる機会は得てして少なく、現実に、彼らが怒っているのか困っているのかすら表情からは分からないことすらあります。
高山さんの作品を観ていても、演者の歌や詩の言葉の意味が理解できず、表情も読み取れず、となると分かるのは画面に表示された名前、作品名、言語の種類だけ。あとは、その演者がステージ上にいてマイクに向かって何かを表現しているということくらいです。
そこにいるけれど実態まではよく分からない、でも確かにそこにいる、そしてそれが連なって1つの作品になっているというスクリーン上の映像は、まるで人間が形作る現実社会そのもののようだなと思いました。言語的にも文化的にも統合されていなくても、社会としてなぜか機能していて、相互理解や多様性の許容があろうがなかろうが人が集まっていて、個々の生活があって人生がある。
けれども普段、私たちは「自分にとって分からないもの」に対して関心を払ったり、その存在に気付くことに鈍感であるように思います。
ヒトはその理解や認知の能力に当然ながら限界があって、普段、自分が理解できるものだけを理解し、認知できるものだけを認知して暮らしています。だからこそ、理解や認知の外にあるものを時に忘れてしまったり、始めから無いもののように振る舞ってしまうことさえあるわけです。
個人の理解や認知の範囲なんて、案外矮小なものであることでしょう。スクリーンに映し出された作品は、250分という長尺を使って「自分の理解や認知の外」がいかに広大であるかを見せてくれた気がしました。
作品の映像を観ていて、言葉は分からないのに「この人きれいだな」とか「楽しいリズムだ」とか「奇怪な踊りだな」といった何かしらの感想を抱いたり、「何を言っているのか全く分からないけど良い人そうだな」とか「緊張してるんだろうな」と勝手な印象を受け取ったりもします。こうした思いは作品に対してというより、パフォーマンスをしている1人ひとりに対して感じるもの。人間って、相手のことをまるで分かりもしないのに色々判断したりレッテルを貼っているんだなぁと改めて思います(私見です)。
この作品に限ったことではないですが、現代アートでは鑑賞者自身の心の中の動きを観察することに自覚的であるということが、前提としてより考えられて作品が創られている気がします。完全に私見ですが、古典的なアートは「美しく見えるように」「神聖に見えるように」といった制作者の意図が全面に出た作品が目立つのに対し、現代アート(コンテンポラリーアート)はもう少し寛大に「どう見ますか?」「どう感じますか?」と自由な問いを投げかける作品が多いと感じます。作品と向き合いながら、自分の心の中にじっと向き合って見えるものを楽しむのが現代アート、と思えば難しくなく楽しめるのではないでしょうか。
高山明さんについて
「Our Songs – Sydney Kabuki Project」の作者の高山明さんは、伝統的な演劇の枠組みにとらわれないアート・プロジェクトを多く手がけるアーティストです。その新しい演劇のプラットフォームを「劇場2.0」と呼び、数多くの都市でプロジェクトを展開しています。東京藝大大学院映像研究科の准教授でもあるほか、都市空間でのインスタレーションや社会実験的なプロジェクトなどを行う演劇集団Port Bを主催。Port Bのウェブサイトには進行中や過去のプロジェクトが分かりやすく載っていて、正直とても面白かったです。
また、高山明さんの2017年のインタビューが国際交流基金(The Japan Foundation)のサイトにあり、これまでの活動などを知ることができ、こちらも興味深かったので是非。工場のラジオ体操のくだりにグッときました。






